飛騨の民話 金塊と砥石 [飛騨の民話]
今回は、岐阜県大野郡のむかし話を紹介しましょう。
むかし、むかし。ある村に少しおめでたい息子がおったと。
息子の家は、砥石(といし)を山から切り出して商(あきな)っていたと。
息子は家の手伝いはおろか、何の仕事もせず毎日ただぶらぶら遊んでばかりいたと。
ある日、村から幾(いく)つも峠(とうげ)を越した奥山(おくやま)の金山(きんざん)から、親方が砥石を買いに来た。息子がぶらぶら遊んでいるのをみて、
「おりの山へ働きにこんかな」
とすすめた。息子は気がすすまなかったが、両親は大喜びだ。
「まちょう(真面目)に働かな、だちかんぞ」
こう言いふくめて、金山の親方と一緒に送り出したと。
親方のあとから、息子は金山で使う砥石を背負ってついて行く。が、荷物など背負ったこともないので、初めの峠へかかる頃になると、くたびれた。峠の辻(つじ)で勝手(かって)に休んだと。
すると向こうから、鶏盗人(とりぬすっと)が鶏(にわとり)を袋に入れてやってきた。
「やあ、お前は何をかついどる」
「砥石だ」
「どうじゃな、卵をよう生む鶏じゃが、わりの砥石と取り替えんかな」
息子は、鶏の袋の方が軽いので、喜んで取り替えた。
そうして、いくがいくがいって、次の峠へかかる頃になると、くたびれた。
またひと休みしたと。
すると向こうから、牛盗人(うしぬすっと)が牛をひいてやってきた。
「やあ、お前の鶏とこの牛とを取り替えんかな。牛の方が大きいだけ得じゃろ」
牛盗人は、牛を盗んだものの、牛があまりにものんびり歩くので追ってが迫(せま)って来ないか、びくびくしていた。
牛なら背負わなくていい。大助かりだ。取り替えたと。
そうして、いくがいくがいって、終(しま)いの峠へかかる頃になると、くたびれた。
またひと休みしたと。
すると向こうから、金盗人(きんぬすっと)が金(きん)の塊(かたま)りを袋に入れて、かついでやってきた。
息子は、その袋を見て、初めに背負わされた袋を思い出した。もうじき親方の金山だ。
今度は息子の方から声をかけた。
「やあ、お前の包みと、おりの牛とを取り替えんかな」
金盗人は、親方のところから金の塊りを盗んだものの、さっき親方とすれちがったものだから気が気でない。どうも追手が来そうなので、牛と取り替えて峠を下って行った。
息子はようやく親方の小屋に着いた。そして親方に包みを渡したら、砥石が金の塊りになっていたので、親方は目を白黒(しろくろ)している。
息子が訳けを話したら、
「いや、なかなかどうして、たわけどころか、利口者(りこうもの)じゃわい」
と、ほめてくれたと。
息子は誉(ほ)められたのが嬉しくて、金山で五年働いたと。
それから家に帰ることになり、親方は給金(きゅうきん)として、金の塊りを息子に持たせた。重かったと。
息子が初めの峠にかかると、牛をひいた百姓(ひゃくしょう)に出会った。
「おやっさま、おりの金の塊りと、その牛とを取り替えんかな」
百姓は大喜びで取り替えると、一目散(いちもくさん)に行ってしまった。
次の峠にかかると鶏商人(とりあきんど)に出会った。息子は牛と鶏とを取り替えてもらったと。
終いの峠にかかったら、金山の買い出し人が袋をかついで来たのに出会った。
買い出し人は腹がへっていたので、鶏と袋のひとつとを取り替えてくれた。
息子は、やっと家に帰りついたと。親方からの手紙を父親に見せたら、手紙には給金として金の塊りを持たせたことを書いてあった。
大喜びした父親が、早速包みを開いて、目を白黒した。
「こりゃ、また、どうしたことじゃ。家(うち)の山の砥石でないかよ。金塊はどうした」
息子は得意顔でこういうた。
「金山へ行くとき、次々(つぎつぎ)取り替えて親方に誉められたぞ。帰りも次々取り替えてきた」
おあとがよろしいようで、、。
飛騨の民話 うさぎのばんばん [飛騨の民話]
萩原町の地図をひろげてみるとわかるが、北のはし、益田郡と大野郡との境に、三つの高い山がならんでおる。
東に船山、西に川上岳、そのまん中が位山や。
これは、むかしむかしも、はるかに遠いむかし、神代の話よ。
位山に、それはすぐれた男の神さまが住んでござったんやと。・・・・・・・背はたかく、体はりゅうりゅうとして、力が強く、なかなかの男ぶりやったそうな。
位山をなかにして、東の船山にも、西の川上岳にも、これはまた花のようにかぐわしい女の神さまがおられたと。
位山の男神さまは、どちらの女神さまとも仲がよく、また女神さまたちも、位山の男神さまを、とても、したっておられたそうな。
「男神さま、わたしをお嫁にしてください。」
「いや、わたしを・・・・・・・」
会うたびに、どちらの女神さまも、きそってこう言っておられたとよ。
男神さまは、この女神さまたちが、たいへん気立てがよく美しくて、どちらともつけがたいので、「はてさて、どちらの女神さまを、もらったらよいものやら。」
と、ほとほと困ってござったそうな。
そして、いろいろ考えあぐねたすえ、女神さまたちを呼んで、言われたと。
「わしの山のてっぺんへ、十五夜の月がかかるのを合図に、わしのところへ早く来てくれた女神さまを嫁にしよう。」
それから数日がたって、いよいよ十五夜がやってきた。
東の船山の女神さまは、早くから月の出を見ることができたので、すぐにでも出
かけられるしたくをして、位山の頂上に満月のかかるのを、今か今かと待っておったが、位山が西にあるので、なかなか月がかからず、いらいらしておられたと。
一方、西の川上岳の女神さまも、すぐに出かけるやわいをして待っとったが、
川上岳から見ると、位山や船山がじゃまになって、なかなか月の出を見ることが
できず、気をもんでおられた。
ところがな、やがて満月が東の空にあらわれると、川上岳はいちばん西にあるも
んで、いま月がでたばっかしやに、もう位山にかかっておるように見えたんやと。
そのおかげでよ、まだ船山の女神さまが、
ー月が出てずいぶんたったが、なかなか位山にはかからんなぁ・・・・・・。
と、まどろしがっておる頃には、もう川上岳の女神さまは、位山の男神さまのそ
ばに行ってな、心うきうきしておられたと。
こうして男神さまは、約束により、川上岳の女神さまを、お嫁にせられることに
なったそうな。
あとにのこされた、船山の女神さまは、ぢだんだふんでくやしがり、船山と位山をへだてる川をつくられたとよ。
それが、いまの無数河川やって言うことじゃ。
ところで、結ばれた神さまたちは、その後、とても仲がようて、子どももぞくぞく生まれ、おおぜいが二つの山を行ったり来たり、とびまわったりするもんで、川上岳の上には、広い遊び場ができたんやと。
子どもの神さまたちがあそんでおるのを、ふもとから眺めると、まるでウサギが
とびはねておるように見えたそうな。
それ以来、川上岳のことを『ウサギのばんばん』と呼ぶようになったって、伝えられておる。
飛騨の民話 清左と河童 [飛騨の民話]
むかしむかしの
ことじゃった・・・
野首の野村勇雄家は、曽祖父助左衛門のころまでを代々清左衛門といいました。
それは何代目の清左衛門のことか分かりませんが、あるとき宮川沿いの上雲(かみくも)の田へ仕事に行っていました。
するとどこからか一人の小童が現れ。
しきりに川へ水浴びに行こうと誘います。
このころ付近では、子供が川へ水浴びに行くと、きまって河童か現れ、ことば巧みに深みに誘いこみ尻の穴から手を突っ込んでイドコを抜き、幾人も死んでいるので、これもきっと例の河童に違いないと思いました。
清左衛門はす早く小石を拾うと尻の穴につめ、さて平気で水の中へ入ると、果たせるかな河童はかれの後へ後へと回ろうとするではないですか。
勝気な清左衛門は水中で格闘となり、かれの腕を力にまかせて引っ張りました。
腕はもろくも元から取れて来たので、清左衛門はこれをかかえ、そのひるむ隙を見て陸へ上がりました。
そのまま家へ帰り、さて御飯をたべているとションボリ訪れたかの河童は、昼の無礼をわび、数匹の魚を土産にさし出しながら、
「アノ腕を返していただけませんか」
と頼むのでありました。
河童は人間と違って、一日のうちなら、雑作なくこれを継ぐことができる性質があるということです。
元来情深い清左衛門のこととて、
「オ前は、このごろ幼い子供をとらえてイドコを抜き、野首の人びとは大変難儀をしている……。
以後絶対にこのようなことをせぬと誓うなら、返してやってもいい……」
と懇々さとして、かの腕を返してやりました。
河童は心から詫び、さてそのお礼にヤケドの薬と「ひぼとり」の技法を授けて去っていきました。
その後「ひぼとり」の法は忘れられてしまいましたが、ヤケドの妙薬は代々相伝え、今に至っているということです。
その技法というのは、「家伝薬」として秘法になっていますが、これを造るに山の木の皮と海川の魚類の一部とを粉にして、純粋の胡麻の油で黒く練ってつくるそうです。
第二次世界大戦で名古屋が空襲を受けたとき、はるばるこの家を訪れるものも多くありました。
さて、その後清左は付近のコモリ山から川へ飛び込む河童の姿を、ときどき見かけたこともあるが、約束を守って、決して人をとらなかったということです。
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はまぐり石の伝説 [飛騨の民話]
戦国時代に築城された、高野と五社との間にそそり立つ古河城(別名 蛤城)に、蛤(はまぐり)のような紋様がたくさんある米俵大の雌雄一対の石がありました。
この石は、夜ふけになると、一方の石より白気をはき、二つの石が相応じてうなり声を発するので、土地の人々からたいへんこわがられていました。どうしてこのような石が山城のいただきに置いてあるのでしょう。築城のとき、城の守り石として運び上げられたのかもしれません。
天正十四年(1586年)、金森長近公が飛騨の領主となり、高山に城を築きましたが、長近公は、なんとかしてこの不思議な神通力をもつ蛤石を、自分の城内に置いてみたいと思いました。
そこで家来に命じ、この石を高山城へ運ばせることにしました。
家来たちは、たたりをおそれて、長近公に思いとどまるよう進言しましたが、何事にも屈しない戦国武将のこと、「百姓どもの迷信にまどわされては、何ができようぞ」と、一言のもとにしりぞけ、無理にでも蛤石を城へ運ばせようとしました。
やがて、集められた人夫によって、石は高山城へ運ばれることになりました。
二つの石は、普通の石より何倍も重くて、人夫たちをてこずらせましたが、やっとのことで道まで運びおろし、車に積みこみました。
しかし、車が進むにつれて石はだんだん重さを増し、国府の桜野のあたりまで来たときには、人夫をどれだけふやして引っぱってみても、びくとも動かなくなってしまいました。
何とかし て動かそうとあせると、二つの石は、ぶぶうと無気味なうなり声をあげるのてす。
このようすにおどろいた家来の者は、さっそく早馬をとばして、このことを長近公に報告しました。長近公は、しばらく考えていましたが、「そのような石を城内へ運ばせようとしたのはまちがいであった。すぐさま、もとのところへ返すように」と言いました。
古河城への帰り道は、少しの人夫でもらくらくと運ぶことができ、無事に城跡へおさまりました。
それから数十年後、飛騨一円は大かんばつに見舞われました。
百姓たちは、神の助けを頼みのつなにして、昼となく夜となく雨ごいの祭りをやってみましたが、天にはひとかけらの雲も出てきません。
このとき、ある百姓が、「あのふしぎな力を持っている蛤石を、城の下の淵へ沈めてみたらどうだろう」と言い出しました。
一同の者は、「それは名案だ。あの石のことだ、ひょっとしたら、どんな力を現すかもしれん。ひとつやってみよう」ということになり、片方の石を城の下に青くよどむ淵へころがり落として沈めてみました。
すると、どうでしょう。
たちまちのうちに黒雲が現われ、大粒の雨がバラバラと降りだしたではありませんか。
そのうちに雨はしだいに激しくなり、かわききった田畑をじっとりとうるおしていきました。
百姓たちは、とつぜんの奇跡におどろき、思わず天を拝んで喜びの声をあげました。
現在、城跡に立っている蛤石は、雄か雌かわかりませんが、片方だけになったら、不思議な力はなくなったといわれています。
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