西忍の人身御供 [飛騨の民話]
西忍には、古来より大蛇伝説があります。
昔、西忍村の中央に大きな池(面積約十ヘクタール)があり、周囲には巨木がうっそうとして茂り、池の主には大蛇が住んでいました。
この主がいつのころからか、年々村の娘たちを人身御供として要求し、もし一度でもこの求めに応じない年があると、山野は大荒れして穀物は実らず、村中は餓死するばかりの状態になるので、「皆の命には代えられないので……」とあきらめの中に、年々娘をこの池に捧げてすでに何年かたちました。
今年もまた村のかわいい娘を、人身御供に差し出すことになりました。
村人はこの娘を身を削る気持ちで送ったが、彼女は目に涙さえ浮かべず、けなげにも出発したということです。
村では小舟に粗筵(あらむしろ)を敷き、娘を乗せました。
娘は白かたびらを着て数珠を持ちその上に座ると、一心に観世音菩薩の加護を念じながら、ジッと観念の眼を閉じました。
村人は念仏を唱えながら、ソッと池の真中へ小舟を押し出しました。
このとき池の中央で、にわかに白波がわきたつよと見る間に、大蛇はスーッと波をかき分け、大きな口を開けて、まさに一呑みにしようとして近づいて来ました。
娘はとっさに懐より千本の針をさした「こんにゃく」を出し、口中へ投げ込みました。
すると大蛇は、突如のたうち回って苦しみ始めました。
鉄類は大嫌いだというのに、全身隙間もなく針が食い入ったからです
大蛇は先きほどの元気はどこへやら、しだいしだいに弱って、僅かにしっぽを動かしていましたが、とうとう息が絶えてしまいました。
すると、あたりはたちまち大暴風雨にかわり、岸に高波が打ち寄せました。
娘はただ一心に仏を祈って微動だにしませんでしたが、舟は娘を乗せて池畔に打ち上げられていました。
そのうちに夜が明けました。
夜来の嵐はからりと止み、そこには両手を合わせて端座している、けなげな娘の姿がありました。
これを見た村の人びとは、今さらながら、観世音菩薩の功徳と娘の沈着な処置に感嘆し、西忍の村には再び明るい平和が蘇りました。
池の主の大蛇が退治された後の湛水は、神明神社の前側と、一方は西忍中組の橋詰の凹地へ流出し、村人はその後を沼田として作りました。この沼田は長い間耕作されていましたが、昭和5年と48年二度の耕地整理で、暗渠(きょ)排水をしたので、いまではすっかり乾田となってしまいました。
長い間続いた人身御供のお寺詣りも、池田がなくなると、これらの行事もなくなりましたたが、人身供養遺跡の碑と、娘たちが彼岸の中日に詣ったという地蔵様(神明神社西側境内)のみは、昔の思い出を残しています。
今見渡す限り青々とした乾田になっていますが、昔は池田で、その山すそには昔の船つき場の名残りさえ伝え、また付近の観音寺では、春の彼岸の中日を人身御供に捧げられた娘たちの命日と定め、この日は村内の娘という娘はお寺に集まって、断食供養を続けてきました。
またこの日は芯立ち塔婆といって青い杉葉のついた四メートル余の塔婆に、機(はた)を織るとき用いるオサとオ(麻糸の原料)をつけ、これを行列の先頭におし立て、池畔にある供養地(堂の軒)まで行列してこの故事をしのび、寺の地蔵さまにお詣りします。
また秋の彼岸の中日には娘たちはお寺詣りして、皆で野菜などを持ちよってお斎(とき)につくのです。
昭和11年4月、西忍耕地整理竣工の際、「人身供養池遺跡」の碑を牛山の山麓に建て、永久にこの事跡を伝えることになりました。
”飛騨古川きつね火祭り” 開催(飛騨の民話) [飛騨の民話]
飛騨の国に、古川というところがあった。
肥えた土地の豊かな村で、村人たちは、米や野菜の作物を作って、のんびり暮らしておったと。
村人たちは、五穀豊穣の狐神をまつり、豊かな実りに感謝しておった。
ところが、それをよく思わなんだものがおった。
水の神の大蛇じゃ。
村人たちが、稲荷神社を作って、熱心におまいりするのを見て、
「なんじゃ、狐ばっかり大切にしておもしろくない。わしはこの里の水を枯らしてやろう」
と、たいそう腹を立てて、田畑から水を枯らしてしまったんじゃ。
いくら肥えた土地でも、水が枯れてしまっては、作物は育たない。
今までにない日照りが続き、米や野菜はほとんどできんようになってしまったんじゃと。
古川の里を治める増島の殿様も、この日照りに心を痛めておいでた。
増島の殿様は、まだ独り身の若い殿様じゃったが、それは立派な方じゃったと。
日照りで不作が続く中、周りの国の殿様は、ますます厳しい年貢の取り立てをし、村人たちは自分たちの食べるものさえなく苦しんでおったが、増島の殿様は、年貢を取らないどころか、たいそうな借銭をしなさって、遠くの国から米を買って、村人に分け与えなさったんやと。
村人たちは、
「本当にすまんこったなぁ。わしら百姓のことを考えてくださる、本当にえらい殿様じゃ」
と、口々に感謝しておったと。
ある日のこと、増島の殿様が、古川の里を家臣とともに見回ってござった時のことじゃ。
殿様の耳に、かぼそい声が聞こえた。
「たすけてー」
殿様が声のする方に急いで馬を走らせると、野兎の罠に足を挟まれた若い娘がおったんじゃと。
「いますぐ罠を外してやろう。痛かろうが、辛抱するのじゃぞ」
身なりのよい、たいそう美しい娘じゃった。
殿様は罠を外すと、
「この傷では歩けまい。傷が癒えるまで、我が城で養生するがよい」
と、増島の城に連れてかえったんじゃと。
娘は、「おこん」と言う名で、美しい、気だてのやさしい娘じゃった。
それにたいそう賢かった。おこんの傷が癒えると、殿様はどこへいくにもおこんを連れて歩いたんじゃと。
その日、増島の殿様は、稲荷神社で、おまいりをしながら、考え込んでござったんやと。
「今年も不作じゃなぁ、この時期にまだ田んぼが青々としとる。何かよい策はないものか。」
するとそばで聞いていたおこんが、
「お殿様、荒城の川から水を引いてはいかがですか。古川の里に水路を作るのです」
と、言ったんやと。
増島の殿様は、はたと膝をうち、
「その手があったか、里をうるおす水路を作ればよいのか。おこんの言うとおりじゃ、さっそく取りかかろう」
と、喜んだと。
次の日から、殿様は、自らが鍬を持ち、家臣とともに水路の工事をはじめなさった。
もちろん村人たちも総出で鍬を持ち、土地を打った。
村人たちは口々に言った。
「さすが、増島の殿様よ、水路を作るとは、わしらは思いつかなんだ」
「いいや、おこんが言ったのじゃ。この水路ができれば、豊かな実りが古川に戻る。皆の者、今は大変であろうが、がんばってくれよ」
「賢い、おこん様じゃ。それにどえらいべっぴんの姫様や」
「立派な殿様にお似合いじゃ。はよう祝言をあげなさればいいのう」
殿様も、お自分のことのように喜んでくれる村人たちの声を聞いて、水路ができたら、おこんと祝言をあげようと、心に決めなさったんやと。
厳しい作業じゃったが、皆の力で、工事は着々と進んでいった。
そうして、ついに立派な水路が出来た。里には水が戻り、また、田畑に実りが戻った。殿様はおこんを連れて城下を見回ってござった。
ある四つ辻にさしかかった時じゃ。
水路から大きな蛇が飛び出し、殿様に襲いかかったんじゃ。
「憎らしや。水を枯らしたのに、水路を作るとは」
大きな口を開け、今にも殿様を飲み込もうとするその先に、一匹の白い狐が飛び出し、蛇を打った。
「なんと、おまえは狐神の娘。おまえの仕業であったか。今に見ておれ」
そう言って蛇は驚き、一ひねりすると水路に飛び込み、逃げていった。
白い狐は、すうっと立ち上がると、おこんの姿に変わったんじゃと。
「殿様、わたくしは気多の山に住む、狐神の娘でございます。
あの日、罠にかかってしまい、人間に化けて助けを求めておりました。あまりにも殿様や、里の人が優しゅうございますので、今まで化け続けておりました。お許しくださいませ。」
と、言ったんじゃと。
するとすぐさま殿様は、
「たとえ狐でもよい。賢く、皆のことを考える娘じゃ。今しがたも、わしを守ってくれたではないか。わしの妻はそなた以外には、考えられぬ。どうか一緒になってくれぬか」
と言ったんじゃと。
すると、村人たちも口々に、言ったんじゃ。
「わしらの殿様が好いたお方じゃ。狐でも人でも関係ない」
「そうじゃ、そうじゃ、おこん様のおかげで、里に実りが戻ったではないか」
「わしらの殿様の嫁様は、おこん様だけじゃ。どうか、古川の里にいてくだされ」
そういうわけで、おこんは、増島の殿様に嫁入りすることになったんじゃと。
そして、婚礼の日になった。
夕暮れになると、古川の里の三つの寺の鐘が鳴り響いた。増島の殿様も、家臣も、そして村人も、皆顔に白粉をぬり、狐の嫁入りが始まった。
それは豪華な婚礼じゃったと。
花嫁衣装をつけたおこんは、それはそれは美しく、輝くばかりじゃったと。
水路に映った提灯の灯りがゆらゆらとゆれて、そろそろと狐の行列が続く。
誰が人で、誰が狐かなんて、もうわからんくらいじゃったと。
もうすぐ、嫁入り行列が増島の城に着くという矢先、またも大蛇が飛び出し、おこんに襲いかかった
その時、もうもうと煙がたちのぼり、二匹の大きな狐が現れると、大蛇の首を押さえたんやと。
「我らは狐神。蛇神よ、大地の実りは、水と土あってのことじゃ。ぬしも里の神となり、この地を守られよ」
すると大蛇は、どうと倒れると、大きな一本の縄になってしまったんじゃと。
その後、無事祝言が行われ、夜遅くまで祝いの酒盛りが続いたんじゃ。
殿様とおこんはめでたく結ばれ、いつまでも幸せにくらしたんじゃと。
それからは、毎年秋になると、稲穂が重たく頭を垂れ、古川の里が黄金色に染まるんじゃ。
こんこん、めでたし、めでたし。
その伝説に、ちなんだお祭りが、飛騨古川に息づいています。
”飛騨古川 きつね火祭り”
9月(第四土曜日)飛騨古川町にて、そのお祭りは厳かに行われます。
今年は、本当に9月27日に結婚されるカップルが夫婦の役を演じるとの事!
末永くお幸せに!
きつね火まつりのメインは、きつねの結婚の儀である「きつねの嫁入り行列」です。
音・明かり・衣装・メイク・踊りなど、さまざまな表現方法で『きつねの物語』を演じます。
月夜の晩、ゆらゆら揺れるろうそくの灯火と共に、
きつね達の幻想的な世界
に、まるでパラレルワールドに迷い込んだ気分です。
ぜひ、体験してみてください。
そして、その古川町に、飛騨を代表する酒屋があります。
飛騨でも人気の高い”蓬莱”を醸造する、”渡辺酒造”です。
138年の掟を破り
世界中の賞を総なめにする飛騨の名門蔵から究極の酒スイーツがここに誕生しました
モンドセレクション大金賞(6年連続金賞受賞)&国際最高品質賞ダブル受賞と、
数々の賞を総なめにする飛騨の名門蔵渡辺酒造が究極の酒スイーツを求めて構想3年。
遂にたどりついたのが、金賞受賞大吟醸をたっぷり染み込ませてじっくり寝かせるという前代未聞の贅沢な熟成ケーキなのです
開封と同時にふわっと香る大吟醸の爽やかな芳香。
ナイフを入れた瞬間しっとりと吸い付くような感触。
きめの細かい
スポンジは大吟醸をしっかりと吸い込んでなんとも言いがたい柔らかさ。
大吟醸とケーキが一体となった魅惑の味わいをお楽しみください。
内容量:420g 箱:縦22.5cm 横7.5cm 高さ6cm
ご家族(お子様には、禁断のケーキです。)には、勿論、贈答用としても喜んでいただけます。
(注)こちらの商品はアルコールが高めとなっております。食後のお車や自転車の運転はおやめ下さい。
また、アルコールに弱い方、未成年、妊産婦の方はお控え下さい。
文字通り ”禁断のケーキ” となっております。
岩井戸観音 [飛騨の民話]
岩井戸観音のいわれ
飛騨七観音の1つとして古来より尊信されているこの観音像は、笹が洞の向小島城の守護観音として、笹が洞の「いわんばのこんもりやま」に安置してありました。
その後、向小島城の滅亡とともに、寺地・笹が洞村民の手により、現在の岩井戸に移されたものと伝えられています。
観音像は、木彫りで、高さは 23.5cmです。毎年6月に林昌寺の住職を招き観音様の供養を営みます。
岩井戸観音縁起より抜粋
今から150年くらい前の天保の時代に、観音様が乞食に盗まれ、杉崎の野木の清助という人に米3升で売られました。
清助さんの家では、観音様のご加護と思われる不思議な出来事が起こったり(清助さんの米俵をつけた愛馬が難所の断崖から落ちたがかすり傷ひとつなく無事だった)、
観音様の夢のお告げがあり岩井戸へ無事お連れしたという話があります。
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<前略>
この野木の清助さんと、村が違う寺地の甚太郎、善七さんの三人が、同じ晩に観音様の夢のお告げを賜ったのです。清助さんの夢では、観音様が「私は、寺地の岩井戸観音であるから、明日岩井戸へ連れて行ってくれ」といわれました。
甚太郎、善七さんの夢にも観音様が現れて、「私は、岩井戸観音である。今は、杉崎の清助さんのところに安置されているが、岩井戸へ帰りたいから、明日、連れに来てくれ。」といわれたのです。
夢のお告げに従って、あくる日、清助さんは観音様を背負って寺地へ向かい、下野の池の山までやって来ました。すると、やはりお告げに従った甚太郎、善七さんが、反対側の道を登ってきたのです。ばったり合ったとき、
「もしや、あなたは杉崎の清助さんではありませんか?」
「そうですが、何か?」
「私たちは、寺地の甚太郎と善七といいますが、ゆうべ、二人とも観音様からお告げを戴き、あなたのところへ観音様をお迎えに行くところです。」と話しますと、清助さんはびっくりして、
「わたしも夢のお告げで、観音様が岩井戸へ連れて行ってくれといわれるのでこうして観音様を背負い申して、寺地へ向かっているところです。」
と、お互いの夢の不思議な一部始終を語り合ったのです。
寺地の二人は、清助さんから観音様を渡してもらい岩井戸へお連れ申したと言うことです。
もう一つの御利益な話
天保(1830~43年)時代に岩井戸観音の開帳が営まれました。
そのとき、高山の大阪屋清七という方が、観音様の修繕寄付をされ、また、岩井戸全山に杉苗も植林されました。
現在の参道の大杉は、大阪星清七さんが植えられたものだそうてす。
ここにまた不思議な話があります。
その大阪屋清七さんが、岩井戸観音開帳の寄付金を募るため、ほかの五人の人たちと、高山付近を托鉢して回られました。
雪の降る寒中に、七日七晩念仏を唱えて回られたのてすが、その途中て、吹雪に遭って道がわからなくなって困っていました。
すると、一匹の黒犬が現われて、清七さんの前を道案内してくれたのてす。
その黒犬こそ観音様の化身であったと気づき、ありがたいことだと感謝し、崇敬の念を深くしたということであります。
(托鉢巡行の画像は、現在本堂の東側に掲げてあります。)
寺地では昔から、延焼するような大火はありませんか、ある夜、「火事だあ。」と、大声て村の中を、上から下へ呼び起こして通ったものがありました。
事実、薪小屋が燃えていましたが、幸い発見が早く、村人がゑんな出てきて消したのてボヤですみました。
火が消えてから、だれが呼び起こしてくれたかを調べましたが、呼んで回ったものはなかったそうてす。
これはきっと、観音様が呼び起こしてくださったのだろうということになり、いまさらのように、霊験あらたかな観音様を、心から崇拝したとのことであります。
<観音様のご加護を詳しく知りたい方のために・・・・>
ある年、清助さんは高山の陣屋へ年貢米を納めるため 自分の愛馬に米二俵を背負わせ、高山街道を行く途中、断崖の険しい所にさしかかりました。同じ時に寺地の水ノ上甚七さんも、年貢米納入のため、米俵をつけた馬をひいて、その難所にさしかかりました。清助さんの馬と甚七さんの馬が競い合って、先を争い通りかけたそのとき、清助さんの馬が道を踏みはずし、米俵を背負ったまま、十間もある断崖に落ちていったのです。清助さんが馬のところへかけよってみると、なんと不思議なことに、愛馬はかすり傷一つなく無事てありました。
一方、清助さんの家ても不思議なことかありました。清助さんの女房が針仕事をしていると、仏壇でいきなり「ガタン」と奇妙な音がしました。さっそく、女房が仏壇のとびらを開けてみると、観音様が中段の花台の上に倒れ落ちてござったのです。
「あら、もったいないことじゃ。」と、観音様を起こしてみると、観音様の指が一本折れておりました。馬が断崖へ落ちる時刻と、観音様が仏壇で倒れられる時刻が同じだったのです。常日頃信心していた観音様が、身代りになってくださったというほかありません。こうして、観音様のご利益により、馬は無事で清助さんと帰ってくることができたということてす。(この観音様の指は、現在も一本折れておられます。)
飛騨の民話 鳴きうぐいす [飛騨の民話]
ず~っと昔のことやった。
ひとりのみすぼらしい男が、初夏の太陽が照りつけるなかを疲れた顔で歩いておったと。
萩原の久津八幡さまを通りかかったころに、暑さでのどがかわいてきた。
男はお宮の森の中に涼しく流れ落ちる清水を見つけて口を潤し、
大杉の木陰で汗を拭きひと休みしておった。
八幡さまの境内はとても静かなところで、木々の間を吹き抜ける風に小鳥のさえずりが気持ちよう聞こえてくる。
その中にひときわ美しくウグイスの鳴き声も聞こえたそうな…。
男はすっかりいい気持ちになり、ゴロリと横になると疲れのせいか、ウトウトと眠気がさしてきたんやと。
それでも、いざ眠るとなると、どうも鳥のさえずりがやかましい。
腹を立てた男は、小石を拾って森の中へ投げつけたと。
・・・ひどいことをするもんじゃ、せっかく小鳥たちが楽しゅうしておるのになあ・・・。
小鳥の声はピタリと静まったが、「ホーホケキョ、ホーホケキョ」、と鳴くウグイスの声だけは相変わらず聞こえてくる。
男はいよいよ腹を立て、続けざまに五つ六つ小石を投げつけたが一向に鳴きやまん。
男はたまりかねて、その声のする方へ一歩一歩近づいて行ったと。
だけどな、不思議なこともあるもんよ。
声は確かに本殿の軒下から聞こえるんやが、いっくら捜してもウグイスは見あたらん。
ただ、軒下に木彫りのウグイスがあってな、今にも鳴きだすように生き生きと刻んであったとよ。
―まさか、この彫りものが―
気のおさまらんままに男は足元の小石を拾い、彫りものの鳥をめがけて力いっぱい投げつけたとよ。
するとな、ウグイスの鳴き声はパッタリ止んでしまったと。
ただ、木の葉をわたる風の音だけがサラサラと聞こえておったという。
男は、慌てふためいて境内を飛び出し、村人にこの出来事を話いたと。
この時からや…あの彫りものを『鳴きウグイス』とよんだのは…
このウグイスの彫りものは、「飛騨の匠」の手によって作られたものと伝えられていて、
←鳴きうぐいす
重要文化財となっている久津八幡宮の本殿の軒下にあって、大切に保存されている。
【わらじかりんと】
これほどまでに薄いかりんとうはめずらしく、もちろん味も良いと大評判です。
大きな“わらじ”の形そのままの「かりんとう」
黒蜜がたっぷりとかかってツヤツヤ!