飛騨の民話 清左と河童 [飛騨の民話]
むかしむかしの
ことじゃった・・・
野首の野村勇雄家は、曽祖父助左衛門のころまでを代々清左衛門といいました。
それは何代目の清左衛門のことか分かりませんが、あるとき宮川沿いの上雲(かみくも)の田へ仕事に行っていました。
するとどこからか一人の小童が現れ。
しきりに川へ水浴びに行こうと誘います。
このころ付近では、子供が川へ水浴びに行くと、きまって河童か現れ、ことば巧みに深みに誘いこみ尻の穴から手を突っ込んでイドコを抜き、幾人も死んでいるので、これもきっと例の河童に違いないと思いました。
清左衛門はす早く小石を拾うと尻の穴につめ、さて平気で水の中へ入ると、果たせるかな河童はかれの後へ後へと回ろうとするではないですか。
勝気な清左衛門は水中で格闘となり、かれの腕を力にまかせて引っ張りました。
腕はもろくも元から取れて来たので、清左衛門はこれをかかえ、そのひるむ隙を見て陸へ上がりました。
そのまま家へ帰り、さて御飯をたべているとションボリ訪れたかの河童は、昼の無礼をわび、数匹の魚を土産にさし出しながら、
「アノ腕を返していただけませんか」
と頼むのでありました。
河童は人間と違って、一日のうちなら、雑作なくこれを継ぐことができる性質があるということです。
元来情深い清左衛門のこととて、
「オ前は、このごろ幼い子供をとらえてイドコを抜き、野首の人びとは大変難儀をしている……。
以後絶対にこのようなことをせぬと誓うなら、返してやってもいい……」
と懇々さとして、かの腕を返してやりました。
河童は心から詫び、さてそのお礼にヤケドの薬と「ひぼとり」の技法を授けて去っていきました。
その後「ひぼとり」の法は忘れられてしまいましたが、ヤケドの妙薬は代々相伝え、今に至っているということです。
その技法というのは、「家伝薬」として秘法になっていますが、これを造るに山の木の皮と海川の魚類の一部とを粉にして、純粋の胡麻の油で黒く練ってつくるそうです。
第二次世界大戦で名古屋が空襲を受けたとき、はるばるこの家を訪れるものも多くありました。
さて、その後清左は付近のコモリ山から川へ飛び込む河童の姿を、ときどき見かけたこともあるが、約束を守って、決して人をとらなかったということです。
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