木々秋色 せせらぎ街道 高山 [飛騨高山NEWS]
高山市清見町と郡上市を結ぶ
紅葉の名所せせらぎ街道で、木々が色づき始めました。
沿道は黄色のトチノキやホウノキ、カツラに、ヤマウルシの赤が映え、
遊歩道には落ち葉のじゅうたんが広がります。
ひだ清見観光協会によると、西ウレ峠付近も少し色が付き始めたようです。
紅葉目当てのドライバーたちがこぞって訪れるこの地です。
ひだ清見ラベンダーフェア開催 [飛騨高山NEWS]
高山市清見町三日町の、
ひだ清見ラベンダー園にて、ラベンダーフェアが開催されます。
日時
平成26年7月5日(土)・6日(日)
平成26年7月12日(土)・13日(日)
9時~16時
内容
・ラベンダースティック作り、木工クラフト体験などの
・ラベンダーポプリの詰め放題は、5・6日限定
場所
ウッドフォーラム飛騨
岐阜県高山市清見町三日町165
見晴らしのよい高台のラベンダー園で、
辺り一面がやさしい紫色と甘い香りに包まれます。
咲く時期が少しずつ違う3種類の品種が植えてあるので
長い期間花が楽しめ、
花の形や色の違いも比べられます。
ウッドフォーラム飛騨では
様々なイベントを開催します。
ラベンダーを使った香水・石鹸・お菓子などラベンダーづくしの催しです。
高山西ICからせせらぎ街道を車で約5分、ぜひおいでくださいね。
早いもの今年も数か月で美味しいトウモロコシの時期を迎えます
あずさ屋では毎年、好評をいただいている、
「開田高原とうもろこし」の予約販売を始めております。
レビューをご覧になって頂き、お気に召したら
畑のスイーツ「開田高原とうもろこし」をどうぞワンぽちっ!
4月14日・15日 ”春の飛騨高山祭” [飛騨高山NEWS]
高山盆地を取り囲む山やまの雪がとけて、ところどころに地肌をみせる4月、飛騨路は陽春を迎えます
長い冬籠りから開放されて耳をすますと、村の鎮守からまつり太鼓が聞こえてきます。
飛騨高山祭りの4月14・15両日は午前と午後の各一回、からくり人形が奉納されます。
祭りの日には、青空にそびえている幟も風にはためき、”ひだびと”の喜びを象徴しているようです。中でも4月14、15両日の山王まつり(日枝神社)が最も大きく、氏子だけではなく近郷近在はもちろん、全国から多くの人びとが集まってきます。
高山まつりの起原がいつかということは、はっきりわかりません。しかし、飛騨の領国大名であった金森氏が、天正14年(1586)に飛騨に入国して、元禄5年(1692)に転封するまでの間であったことはまちがいないと思われます。
すなわち、元禄5年(1692)8月29日、板坂平内より加賀藩士永井織部に宛てた書簡に、「3年1度3月時分山王祭御座候」としるし、「右私家来野崎弥兵衛、40ヶ年以前五、六年飛騨高山に罷在候付、口上覚書如此御座候」とあります。
元禄5年より40年以前といえば承応元年(1652)で、将軍は4代家綱、高山城主は4代頼直の時代でした。このころ既に3年に1度ずつ山王祭礼のあったことがわかっていますが、その他の神社の記事はなく、山王(日枝神社)だけをしるしています。高山城の山つづきに鎮座し、氏子である川原町に住む扶持人によって神輿をかついで高山城に入ったと記録もあり当時の祭は領主の祭であったと思われます。
そのころの村方では湯花祭が毎年行なわれていたから高山の町のいくつかの宮で民衆の祭もあったのでしょう。
高山まつりが日本の三大美祭の一つとして喧伝(けんでん)せられるのは、動く陽明門といわれる屋台があるためです。荘厳で華麗、絢爛で豪華、それに幽玄と哀愁がほどよく融合した屋台は、伝統美と工芸美が一如となったものです。
その母体をなすものは、桃山時代の豪華な建築と美術工芸、それに江戸初期の日光大造営に見る新興技術などの響、感化が飛騨の匠(たくみ)の技量によってさらに高められて、一大絵巻物となる屋台芸術がここに花ひらくのです。
高山まつりの屋台はとにかく美しい。それはあらゆる形容をもって称えられていますが、何故そのようになったか、高山の町衆の経済力が東西の文化を良く吸収していたこと、従って旧形や伝統にとらわれず、新しいものを求めたこと、またそれに答えうる、大工、塗師、彫刻師がいたことであり、他の組の屋台より美しくしようと互いに競いあったからであり、それをなしうる経済力を持っていたことだと考えられます。
春祭12台、秋祭11台が昭和35年6月全国にさきがけて国の重要民俗資料に指定され、次いで昭和54年祭行列、行事が国の無形民俗文化財に指定され、
↑記念切手にも採用されています。
必見すべきは4月14日、日が落ちてからの宵祭りで、
勇壮な姿の屋台が古い町並みを残す高山市内を練り歩く姿は、これぞ夢の如し。
祭りも観光化され年々新鮮味も薄れてきたというが、実際に訪れその荘厳な時代絵巻を間直に観ると感動を覚えずにはいられない。
荘川桜 奇跡の物語 [飛騨高山NEWS]
飛騨はいまだ朝晩肌寒い日が続きますが、
自然は着々と初夏に向かって命を育んでいます。
飛騨高山祭りも4月14日、15日に控へ、桜の花も蕾を膨らませて
います。
某TV局「奇跡体験アンビリーバボー」という番組で紹介され、大きな反響を呼んだ桜の木があります。
荘川桜(しょうかわざくら)は、岐阜県高山市荘川町(旧荘川村)中野の国道156号沿い、御母衣ダム湖岸にある樹齢四百年と推定されるサクラの古木。荘川桜は、アズマヒガンザクラという野生種の桜で、ごく薄いピンク色の花弁とごつごつした幹が特徴です。樹齢約450年の古木です。
昭和34年(1959年11月3日)、日本の産業復興の為にはどうしても電力の確保が急務であるという国情の中、庄川上流の御母衣のひとつの村がダム開発のために水没することになってしまいました。
わずか174世帯とはいえ、この地で生まれこの地で育ちこの地で生きてきた人々にとっては、故郷が水没し消えてしまうという大変残酷で、苦渋に満ちた決断を迫られる出来事でした。
住民側との交渉にあたったのは、電源開発の初代総裁高崎達之助。(写真右から2番目)彼は真摯に住民との対話を続け、断固として建設に反対し続ける村民でしたが、交渉を進めるに及び、常に村民の気持ちを考え、時には共に涙を浮かべ交渉にあたる高崎の誠実さと人柄に触れ、村民たちの頑なな気持ちは次第に打ち解け、6年の歳月をかけ住民達は苦渋の決断をし、開発側と和解をするのでした。
和解のときはすでに高齢の為、総裁の職を辞していた高崎でしたが、再度御母衣を訪れ、沈みゆく学校・鉄橋・家々など、水没予定地をゆっくり見て回りました。そして、学校の隣にある光輪寺の境内の片隅に、幹周一丈数尺はあろうと思われる桜の古木がそびえており、それを見たときこの桜を救いたいという気持ちが、胸の奥のほうから湧き上がってくるのを抑えることが出来ませんでした。
村の象徴である桜を救うために白羽の矢があったたのは、日本随一の桜研究家と知られ、自ら「桜男」と名乗る笹部新太郎(写真)でありました。「この樹齢450余年の古木を移植し、活着できる見込みはあるのでしょうか?」という高崎の問いに笹部は「自信は持てませんナ。」高崎は食い下がり「絶対に無理ですか?」と聞きました。笹部は「こと生き物に関しては、絶対などという言葉は使いたくありません。」そういいながら言葉を継ぎ「やればいいのでしょう、、。」と言ってしまいました。
笹部は高崎の懇願を受け入れてしまったことを後悔しつつ、これに失敗したら二度と桜を語るまいと心に誓いました。
数多くの人による尽力の末、老桜はダムの水面より上の丘へと引き上げられました。しかも、笹部が現地に赴いた際に発見した照蓮寺の、やはり樹齢450年以上の桜も一緒に、2本同時の移植が行われました。
それは、世界植樹史上例のない移植工事でした。重量合わせて73トン。移動距離600メートル。高低差50メートル。俗に「桜伐(き)る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿」といわれるように、梅と異なり、桜はむやみに枝を伐採すると、たちまち立ち枯れしてしまう外傷に弱い植物。しかしこの2本ほどの巨木の移植は、枝や根を伐らずには、数メートルを移動させることすら不可能でした。
無事、移植はされましたが、丸裸になってしまった老桜を見た周囲の声は、「古木の手足を切り取って生きてゆけるわけが無い、むしろ今の姿のまま、ダムの底に沈んだ方が良かった。」と、非常に厳しいものでした。
しかし、奇跡は起きたのです。遅い春が訪れ古木の活着状態を確認するため残してあった枝に蕾がつき、薄いピンクの花が見事に咲いたのです。地元の人達は大感激、中でも湖底に沈んだ村の老女は桜の幹にすがって号泣しました。
”歌碑”
そして、高崎は桜の古木を見上げながら、詠みました。
ふるさとは 湖底(みなそこ)となりつ
移し来し この老桜 咲けとこしへに
いまや二人とも鬼籍の人となりましたが、人の一生のことを考えます。
生きて名誉を勝ち取るか、死して名を残すか?
高崎にしろ笹部にしろ、時代が過ぎれば政治家としてのあるいは研究者としての名声は、はかなくも消えていきます。
しかし日本という国が存在する限り、「荘川」にその名は永遠に残るでしょう・・・。
(敬称略)